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Past Events

2023年8月26日(土)

第48回言語文化研究会総会を開催します。

場所:カトリック大阪大司教区サクラファミリア教会4階会議室

時間:14.00-17.00

発表:未定

講演者:未定

2023年3月18日(土)

第47回言語文化研究会総会を開催しました。

場所:カトリック大阪大司教区サクラファミリア教会4階会議室

総会:対面開催15.00-16.00

講演:対面開催16.15-17.40

講演者:松村敏彦氏

​題目:「空」の作家サンテグジュペリと「海」の作家ジョウゼフ・コンラッドの文学

​概要:未定

2022年3月12日(土)

第46回言語文化研究会総会を開催しました。

形式:zoomを使用したリアルタイムオンライン

講演者:山根明敏氏(武庫川女子大学准教授)

​講演タイトル:Henry James, Ernest Hemingway, Raymond Carver, 村上春樹という系譜

講演要旨:論題となっている系譜は、F. R. LeavisのThe Great Tradition (1948) のような、確固とした裏付けのあるものではない。これまでに書きためた論文をもとに、博士論文を書くことになり、論文で取り扱った作家が、Henry James, Raymond Carver, 村上春樹と一貫性がないため、あえて相互の作家を関連づけるために、苦し紛れに作り出した系譜である。最も苦心したのは、JamesとCarverをどう結びつけるかという問題であった。Jamesと Carver は、どちらもリアリズムという大きな枠に入るものの、文体や主題等に関してはあまりにも距離があり、またCaverが直接Jamesの影響を直接受けたことを証明することは困難である。Jamesはアメリカにはnovelを書く風土がないという理由で、創作活動の地をイギリスに求めたが、Carverが題材にしたアメリカは、およそJamesが「ホーソーン論」(1879)で述べている文明とはほど遠い、アメリカ西海岸の労働者階級の日常生活である。James, Carverの両者を結びつけるには、その間に入る作家がもう一人いるのではないか。そのように考え、思いついたのが、Ernest Hemingwayであった。HemingwayがJamesとCarverとをなぜ結びつけるのか。本講演はこの問題を主題に考察する予定である。

2021年9月12日(日)

第45回言語文化研究会総会を開催しました。

形式:zoomを使用したリアルタイムオンライン

講演者:上野和久氏(高野山大学教授)

​講演タイトル:今を生きる私たちの心の健康を考える―小児期の心の傷が今を生き辛くさせている―

講演要旨:今日の大学教育の場において、学生の「こころ模様」が非常に見辛くなってきました。個人的な感覚ですが、学生だけでなく今を生きる私たち自身においても言語的なコミュニケーションだけでの意思疎通が難しくなってきているようにも思えます。そのひとつの現象として、発達障害という概念が教育現場や社会活動の場でクローズアップされ、私たちはその概念に沿って、理解し対応しています。しかし、発達障害への対応は教育現場・社会活動の場では尊重されながらも、また別の見方も必要ではないかと考えます。それは、学生、現代社会の第一線で活動している人たちが育ってきた環境です。問題を抱える人の多くは、小児期の心の傷を負ってきているという事実があります。その心の傷が、文字を通じて教育する大学教育の根底を揺るがしているようにも感じます。学生の心理支援行っているひとりの教員として、生物・社会・心理学的視点からの心理的支援の現状をお伝えし、その対応から先生方の教育場面で活用できるものがあればと願ってます。

2021年7月24日(土)

役員会を行いました。第45回言語文化研究会総会は9月12日を予定していますが、緊急事態宣言下であればオンライン(zoom)開催、まん延防止等重点措置下であれば対面開催とします。またオンライン開催となった場合はリアルタイムと併せて総会の様子をオンデマンド配信する予定です。

2021年2月20日(土)

第45回言語文化研究会総会を開催します。コロナ感染拡大防止の観点よりオンライン(zoom)開催とし、IT環境に不安のある会員は発表者としてのみ対面参加を認めハイブリッド型の形態を予定しています。(1月16日:中止となりました)

2021年1月16日(土)

オンライン役員会を行い第45回言語文化研究会の中止が決定しました。総会はメールでの承認をもとに行われます。

2020年12月5日(土)

役員会を行います。(11月29日:コロナ感染拡大防止のため中止となりました)

2020年9月24日(木)

会長あいさつを更新しました。

2020年9月12日(土)

役員会を行いました。

2020年7月27日(月)

​『言語文化研究』第25号が発行されました。電子版発行は未定です。

2020年6月15日(月)

コロナ感染拡大防止の観点より秋季研究会開催を中止いたします。

2020年4月1日(水)

新会長が就任しました。

2020年2月22日(土)

ギャラリーにパスワードをかけました。閲覧したい場合は掲示板に使っているパスワードを入力の上ご覧ください。

2020年2月15日(土)

第44回言語文化研究会総会を開催しました。

​ギャラリーに写真をアップしました。

掲示板に自己紹介お願いします。

2020年2月15日(土)

第44回言語文化研究会を開催しました。

発表者:山村誠治氏(大阪大学全学教育推進機構講師・関西外国語大学講師・天理大学国際学部講師)

発表タイトル:古英語における最上級形容詞と限定詞の共起についての研究報告

発表要旨:現代英語では通例、形容詞の最上級が用いられる際、その直前には定冠詞か名詞・代名詞の所有格のいずれか(以下、限定詞)が伴うということは、周知のとおりである。ただ、最上級の形容詞には常に限定詞が伴うというわけではない。Quirk et al (1985)によると、限定用法の形容詞の場合、限定詞が原則必要になるが、叙述用法の形容詞のなる場合、限定詞の共起は必須ではない。現代英語のこのような統語現象はいつ頃から始まり、英語に定着していったのであろうか。その一端として、発表者は後期古英語時代の散文作品である『オロシウス』(Orosius)を取り上げ、そこで用いられる最上級形容詞を指示代名詞seとの共起という観点から調査を行なった。本発表では、その調査結果と問題点について報告し、今後研究を進めていく上での課題を提示する。(註:指示代名詞seとは、定冠詞theが発達する前にそれと類似する機能を果たしたと考えられる古英語の指示代名詞)

講演者:笹本長敬氏(元大阪商業大学教授)

講演タイトル:チョーサー『カンタベリー物語』の面白さ―聖職者たちの肖像描写に焦点を当てて―

講演要旨:The Canterbury Talesは、カンタベリーへの巡礼に参加した様々な職業の巡礼たち29人(実際に勘定すると30人)が、巡礼の旅のつれづれに、道中で昔の話を物語る話を集めた作品である(ただし未完)。その「ゼネラル・プロローグ」にはその巡礼たちが紹介され、彼らの肖像が巧みに描写されている。その中には聖職者や教会関係者もいる。本来聖職者は巡礼に出かけないのだが、チョーサーは色々な職業、階級の人たちを紹介するために入れたのであろうが、巡礼たちはユーモアや皮肉、風刺、揶揄など滑稽な面を交えて紹介されている。ここではわれわれには分かりにくい14世紀の聖職者たちの姿に絞って、女子修道院長Prioress、観想修道士Monk、托鉢修道士Friar、教会裁判所召喚吏Summoner、免償家(免罪符売り)Pardonerの、当時の聖職者らしからぬ生態を分析しながら、どこが興味深く面白いのかを解いていきたいと思う。

2019年12月22日(日)

忘年会を開催しました。Galleryに写真をアップしています。

2019年9月1日

第43回言語文化研究会を開催しました。

発表者:入江成治氏(京都精華大学 高大接続センター特任教員)

発表タイトル:「旧都と地名」中山修一の地名研究と長岡京発掘

発表要旨:中山修一(1915〜1997)は、1955年、京都府向日市で朝堂院南門跡を発掘して長岡京の宮域を明らかにし、その後も長岡京の全体像の解明のために半生を捧げた在野の研究者であった。幻の都と言われた長岡京は、784年から10年間、現在の京都市、向日市、長岡京市、大山崎町にまたがる区域に本格的に造営されていたことが中山によって証明されたのである。その発見に至る過程で、中山は古地図等に残された地名を手がかりにして、国家の政務・儀式を行う大内裏でもっとも重要な施設である朝堂院の所在を突き止めたのであった。今回の発表では、中山の探究の過程をたどりながら、地名研究の意義と現状の課題について述べたい。

講演者:Bjorn Heiberg氏(包丁専門店タワーナイブス代表取締役社長)
講演タイトル:大阪の味と切れ味 新世界と包丁の世界についてDeepなお話
講演概要:大阪府堺市の刃物文化発展の歴史は戦国時代に遡る。煙草切刃や鉄砲の需要による経済発展に支えられた地元職人の技術革新が今日の堺刃物の地位を揺るぎないものにした。しかし、近代における刀から包丁への需要の変化と現代の食文化の変化により、この技術の一般への浸透の鈍さが危惧されている。本稿では日本食文化における刃物の使用、種類、歴史などを具体的実践を交え紹介する。さらに、日本の職人技の繊細さと心意気、また後継者不足などの現状問題を述べ、一般消費者への周知の大切さと自身が行っている広報活動の効果も述べる。

2019年6月8日

役員会を開催しました。

2019年3月23日

​本研究会会員の井田規文先生、今村隆先生、和久豊先生の古希のお祝いを行いました。

2019年2月17日

第42回言語文化研究会を開催しました

発表者藤原 曜氏(関西学院大学非常勤講師)

発表タイトルサミュエル・ベケット『ロッカバイ』における中心と脱中心

発表要旨:サミュエル・ベケットが自身の戯曲を演出する際、事前に綿密な準備をし、予め思い描いたイメージに沿うよう俳優に厳しい要求をしたことは作家の完全主義を伝える逸話として広く知られているが、自作の上演におけるこうした妥協を許さぬ態度は、作品を適切な状態で観客に届けるための配慮によるものであったと考えられる。実際『わたしじゃない』の上演に際し、舞台上の「口」から発せられる声が「観客の知性にではなく神経に向けられる」よう演出家アラン・シュナイダーに指示していたことを思い起こすなら、戯曲の演出における厳格な態度は、観客へ与える「効果」を考えたうえでのこととみなすことができるだろう。「自分が判ってもらえるかどうかあまり気に留めることはない」と公言し、また作品の「意味」について語ることを一貫して拒んできたこととは対照的に、自作の上演において、作家がその「効果」を引き出すための言葉を惜しむことはなかったのだ。

本発表では、作品がその受け手に与える「効果」の一例として「中心」と「脱中心」の問題について検討する。作家の晩年の戯曲『ロッカバイ(Berceuse)』では、同一性と差異の問題が、「近づくこと」と「遠ざかること」という運動を伴いながら複数の次元で展開されている。この戯曲が、沈黙、静止、闇へと至る過程として描かれていることは明らかだが、その進展は二項対立による構成のため決して直線的ではない。物語の主人公が他者と鏡像関係にあること、舞台上の人物の声が録音されたオフの声と生の声に分裂していること、さらに物語が三人称で語られることで、舞台(見えるもの)と物語(聞こえるもの)の関係は互いに依存しながら距離のあるものとなっており、これら二項の間の差異によって戯曲の中心は絶えず揺れ動くことになる。揺り椅子の動きと共に振動する舞台空間。本発表では、『ロッカバイ』が内包する複数の運動を、作家が意図的に導入した「効果」と考えながら「中心」と「脱中心」という主題にアプローチしたい。

講演者松田正貴氏(大阪電気通信大学講師)

講演タイトル二つの体制のあいだ ー 教育のゼロ地点を求めて

講演要旨:1945年8月14日ポツダム宣言受諾後、日本の世論は軍国主義的な言説からGHQ主導による平和主義的で民主主義的な言説へと180度転回しました。教育の現場でも、それまで軍国主義的な精神性を重んじるよう指導を行なってきた教員が、敗戦後は掌を返したように平和と民主主義を語るようになりました。国民学校および中等学校の教員たちは、教科書に含まれる軍国主義的な文言を墨で徹底的に塗りつぶすよう生徒たちに命じました。このとき生徒たちは旧体制を否定する重苦しい気分と来たるべき新体制への不安という二重の心的苦痛を味わわねばならなかったように思われます。戦時中、敵性語とされた英語の教科書も例外ではありませんでした。かつて絶対的に正しいとされ、何度も暗唱させられた文言を自らの手で黒く塗りつぶすというこの経験について想像をめぐらせながら、英語墨ぬり教科書の今日的意義についてお話させていただければと思っております。

2019年1月26日

​役員会&新年会を開催しました。

2019年1月4日

​忘年会の写真をアップしました。

2018年9月17日

『言語文化研究』21-23をORCのPDFに変更しました。

2018年9月15日(土)15.00〜

第41回言語文化研究会を開催しました。

発表者米田亮一氏(関西大学非常勤講師)

発表タイトル第三者との絆を優遇しない人間関係に向けて―E・M・フォースターの小説における同志観

発表要旨:E・M・フォースター(1879-1970)は小説を執筆しなくなってから10年以上経って書いた有名なエッセイ“What I Believe”(1939)のなかで、「国を裏切るか友を裏切るか迫られたときは、国を裏切る勇気を持ちたいと思う」と述べている。彼が生涯に執筆したわずか6つの小説は、この信条を第三者との絆を優遇しない個人的人間関係の大切さを表すものとして拡大解釈することが許されるなら、まさにこの信条を裏付けるかのように書かれていることがわかる。

たとえば、結果として彼の最後の小説になったA Passage to India (1924)では、イギリス人のフィールディングがインド人の友アジズを第三者との絆(愛国心)を裏切ってまで友情を維持できるのかが中心的テーマになっている。4作目のHowards End(1910)では、相手の人格と彼らとの精神的交流を何よりも重要視し、彼らを第三者との絆や自身の目的のために道具として利用することをなによりも嫌悪している主人公のマーガレットの姿が印象的に描かれている。3作目のA Room with a View (1908)では、主人公のルーシーは第三者(家族)よりも恋人のジョージとの絆を重視し、最終的に駆け落ちという形で小説は終わりを迎える。同様に死後出版された5作目に当たるMaurice (1913)では、主人公のモーリスは同性愛を認めない第三者(社会)から背を向けて、森の中で恋人のアレクと二人で暮らすことを選ぶ。

興味深いのは、フォースターがこのような第三者との絆を優遇しない個人的人間関係を恋人や友人との間で結ぶことに伴う困難さに初期の小説から十分に自覚しているという点である。最初期の小説であるWhere Angels fear to tread (1905)では、無思慮に第三者(身内)との絆を無視して魅力的ではあるが残忍さも併せ持つイタリア人のジーノと結婚して悲惨な目に遭うイギリス人のリリアの姿を描いている。一方、作者の自伝的小説とされる2作目のThe Longest Journey(1907)では、主人公のリッキーが恋人や友人を選ぶ時点で既に自身の彼らに対する気持ちを差し置いて、彼が意識的に尊敬する母や無意識的に尊敬するジェラルドの彼らに対する欲望を参考にしてしまい、結果として恋人や友人と上手く関係が築けない様が描かれている。

このようにフォースターは、第三者との絆を優遇しないパートナーとの精神的交流の困難さを自覚した上でその大切さを小説を通して描いてきたと思われるのだが、本発表では特に彼が自戒をこめて書いたと思われるThe Longest Journeyにおける主人公の問題点に焦点を絞って論じたい。フォースターは共感に基づきお互い支え合うような恋人や友人との理想的な関係を同志

(“comrade”)という言葉でしばしば表現しているが、この相互の共感を妨げる要素として作者は第一に、リッキーに見られるパートナーに直接欲望が向かわずに第三者(登場人物達が尊敬する相手やライバル)の欲望を介する点を問題視しているように思われるのである。本発表ではこの点を、他者の欲望に囚われるリッキーとアグネス、彼とスティーブンス、そしてHowards Endにおけるマーガレットとライバルの欲望に囚われるヘンリーとの関係と、第三者の欲望に囚われず同志としての関係を築いていくA Room with a Viewにおけるルーシーとジョージの関係を比較することで明らかにしたい。

発表者山口徳一氏(甲南大学非常勤講師)

発表タイトル18世紀におけるImitation ーAlexander Pope: The Temple of Fameを通して

発表要旨:18世紀英国詩人アレグザンダー・ポープによるThe Temple of Fameは、14世紀宮廷詩人チョーサーによるHous of Fameをモデルにして韻文化されているが、それは、単に主題や構成のみならず、詩の真髄とも言うべき比喩的表現においてさえも、先達であるチョーサーの詩を悉く踏襲している。一方で、チョーサーのHousもまた、ローマ詩人ウェルギリウスによる『アエネーイス』、そしてオイディウスによる『メタモルフォーセース』の両詩に描かれる噂の女神を、その屋敷と共に踏襲し韻文化したものである。もちろんポープの時代においては、先行の詩、あるいは散文等を模倣することは、通常の手段であり、それはいわばポープの信条でもあるが、とりわけ18世紀最大の文学的識者であるサミュエル・ジョンソンが定義づけるように、模倣とは、ローマの伝統のように、崇敬されるモデル、著者への取り組みであり、その著者の精神を、現代的あるいは国内的な事柄に翻訳する、あるいは言い換えるということに他ならない。従って、チョーサー、ポープの両詩は、単なる模倣作品と位置付けるべきではない。というのも、チョーサーはラテン詩に描かれた世界を中世のイングランドへと再現して描き、さらに、ポープに至っては、チョーサーの描く中世の世界を、自らが生きる18世紀ロンドンへと、チョーサー以上に臨場感を与えながら、現代化して蘇らせているのだから。そしてそれこそが、ジョンソンの言う模倣の真髄である。つまり、両詩は、古典を、また海外の作品を、現代的なそして国内的な実例を使って言い換え、オリジナルにおけるテーマを再現させ、その著者の精神を蘇らせるという模倣の真髄に則って描かれており、その結果、単なる模倣作品ではないと言えるのである。

2018年2月17日(土)15.00〜

第40回言語文化研究会を開催しました。

発表者小川洋介氏(神戸大学非常勤講師)

発表タイトル相互行為における客観主義的認識の方法論哲学 (Nature of Inquiry and Research on Objective Epistemology in Interaction)

発表要旨:現代では科学研究の発達により研究分野は細分化され、各分野が担う科学哲学や方法論も独自の発達を遂げつつある。しかし、どれほどセンセーショナルな考察であれ、妥当性や信頼性が無ければ研究価値はゼロである。本研究では、社会科学における方法論の再考察と相互行為研究における他者による認識の妥当性の有無を他分野の科学方法論と比較しながら論考する。社会科学研究において、認識の存在は内在的であるため主観のみで証明可能であり、自我に内在する社会的記号によるコード化と自発的発信により初めて他者に観察され、その他者の認識する社会秩序によってデコードされた解釈が他者内に内在して伝達行為は完了する。人文科学方法論で可能とされる転用可能性も、研究対象である相互行為が構造主義的存在であるため限定され、自然科学方法論で可能とされるエティック分析も、観察者自身が社会秩序の中の一員であるがゆえに、相互行為は社会秩序に依拠したイーミックな存在であり、究明された秩序でさえ社会的解釈を元にした相対的存在になる。本稿では、相互行為研究の分析プロセスをもとに、参与者の客観主義的認識と観察者の客観主義的認識を考察し、イーミックの視点から社会的相互行為における認識論的存在と実存的存在の境界線の克服を試みる。まず、三者間相互行為のデータを分析し、社会的行為の記号化を科学哲学的に考察したうえで、多角的に開かれた議論を誘発できる方法論哲学を論じる。

講演者花岡秀氏(関西学院大学名誉教授)

講演タイトル作家とアルコール ーWilliam Faulknerと倉橋由美子

講演要旨:ウィリアム・フォークナーと倉橋由美子には、意外にも、自らと小説との関わり、あるいは小説を書くときの基本的な姿勢に関する言及に奇妙な一致が認められる。創造した作品においては、時空間の中で、まるで「神」のように人びとを動かすことができると述べたフォークナーと、作家の在りようを、「創造主」と捉え、「小説では神にあたる作者が人物たちの運命の糸を操る」とまで語った倉橋。大量にアルコールを摂取したフォークナーと、体質的にほとんど酒を飲まなかった倉橋ではあるが、自らが構築した虚構の世界に対するこの姿勢の同質性は、作品中における多様な問題の比較の妥当性を確保してくれると同時に、作品中における酩酊状態の描写の検証による、作家とアルコールの問題の多角的、有機的な考察をも可能なものとしてくれる。

 フォークナーのアルコール描写に関しては、Sanctuary の中でのGowan や Temple、Light in August でのChristmas の、他に類を見ることのできない酩酊状態の描写がすぐさま想起される。そこでは、視覚、聴覚、触覚をはじめとする多様な感覚を駆使しながら、精神と肉体の乖離とでも呼べる酩酊状態が浮かび上がる。しかし、このような迫真の描写は三十歳半ば以後はなりをひそめ、比較的平板な描写へと変化していく。そこには、アルコールに対する耐性、アルコールとの距離を保つことを可能にする体力が関与していたように思われる。自らのアルコール体験をかなり生々しいかたちで作品に利用するだけの体力的な余裕、アルコールに対する耐性が弱まっていったのにもかかわらず、現実生活やその性格的な部分と深く関わった飲酒の方は逆に加速度的にその凄まじさを増していき、体力的に、もはや自分のアルコール体験を余裕をもって作品の中で利用できるような状態ではなくなっていったといえよう。

 一方、倉橋のアルコール描写は、『よもつひらさか往還』、『酔郷譚』で描かれる、『シュンポシオン』や『交歓』に登場した入江氏の孫、慧君の酩酊状態の描写が異彩を放っている。バーテンダーの九鬼さんの作るカクテル、九鬼さんと深い係わりを窺わせる真希さんによる秘酒や魔酒を飲み干しながら、酔郷へと誘われ、東西の古典文学を下敷きにした冥界である「あちらの世界」と「こちらの世界」を往還しつつ、時空を超えた様々な美女との戯れ、美と恐怖の入り混じった交歓を経験するとてつもないスケールの酩酊の世界が繰り広げられる。こうした一連の物語から浮かび上がるアルコールは、現実、もちろん作品の中での現実という意味では括弧付き「現実」ということになるが、現実の世界と架空、あるいは虚構、これまた虚構の世界におけるさらなる括弧付き「虚構」の世界を往き来するための一種の交通手段、あるいはパスポートの役割を担っている。いずれにせよ、倉橋にとっては、アルコールが作品の世界をさらに複雑なものに構築するための一つの装置として働いているといえよう。

 フォークナーと倉橋にとってのアルコールの意味は、面白いことに、常軌を逸したとまでいえる飲酒歴をもつフォークナーにとっては、どこまでも彼の現実生活、日々の営みと深く関わったものであったのに対し、実際に、体質的にほとんど酒を飲まなかった倉橋にとっては、どこまでも作品の創造に関わったものであった。​

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